先日友人と話していた時のこと。
様々なビジネスセミナーや自己啓発セミナー大流行りの経済優先社会。誰もが何かに急かされるように生きていて、何が大切かわからないまま走り続けなくてはいけない社会で、呼吸を深く、迷わずに歩いて行くには、どうしたらいいのか。
友人は、「自分の中に『これが幸せだ』という幸せの原風景があることが力になると思う」と言いました。
それがあれば、この道は、その幸せに繋がっているのか、この選択をした時に、その原風景に近づいて行くのか、遠ざかってしまうのかという原点にたった判断ができるからです。
自分のことを考えた時、しっかり それが あることに気づきました。
その風景は、大好きな祖母の家で過ごした夏の夜の風景。
海外で張り詰めた毎日を送っていた私には、栃木の田舎(当時はまだ家の前に田んぼがありました)で過ごす夏は、宝石のような宝物の時間でした。
日中は汗だくに遊びまわり、お風呂に入れてもらい、シッカロールをぱんぱん叩いて、ビタミンcのタブレットを口にくわえさせてもらい、お手製のタオル腹巻をしてもらって寝床に向かいます。
子どもには冷房は入れない、という主義だった祖父。でも夏の栃木の一軒家の夜は暑くてなかなか寝つけません。
そんな私たちに、祖母は微笑みながら、寝つくまでうちわで風を送ってくれました。
若い頃とても苦労した祖母のシワシワの手が、ゆったり優しく揺れて気持ちのいい風が吹いてくる、この幸せな時。
おばあちゃん、と呼ぶと、はあい、と小さい声ではにかむように答える祖母の声。
眠いのに、この時間がずっと続いて欲しくて、一生懸命に起きようとして、でも、水戸線のがたんごとんという音も、雨戸を越えて聞こえるカエルの大合唱も、ふすまを隔てた母や叔母たちの忍び笑いの声すら、子守唄に聞こえて…そのまま眠りに落ちて行くふわりとした感覚。
それが私の幸せの原風景です。
この風景に続く道なのかどうか。
こんな風景を、誰かに、なにかの形で手渡すことができるかどうか。
そんな価値基準でやっていけば大丈夫。
お金持ちやいわゆる成功者になれなくても、幸せ者にはなれる。
そんな安心感を胸にゆっくり眠れた夜でした。